金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

戯論


言語は真如に近づくための筏のようなももの。
人間は言語で思考しますからね。そこまでは必要。
しかし、それで彼の岸に上がることはできない。
ましてや彼の岸を言語で規定などできない。
言外の世界。
故に真如に対する議論を「戯論」という。
学者や学者には至らぬ世界。
ギリシャソフィストたちのしたような言葉や智慧の遊びでしかない。
対象物として向こうに置くことは不可能な世界。
故に古来「真如実相」とは何々に非ずといういいかたしかできないといいます。
真如の外側を撫でるだけ。経典の言葉も詮じれば同じこと。

臨済宗白隠さんは法華経なんか薬の効能書きみたいでつまらんと思っていたそうですが、何回も何回も読むうち真如に触れて感動のあまり大泣きした。
そこは何度も読んだはずなのにそうなった。
言語の船からおりて岸に上がったんですね。
読誦を行として行うとそうなる。
ただ書籍として読むなら何回読むも同じこと。
行のありがたさはこの「薫習」にある。