人間は言語で思考しますからね。そこまでは必要。
しかし、それで彼の岸に上がることはできない。
ましてや彼の岸を言語で規定などできない。
言外の世界。
故に真如に対する議論を「戯論」という。
学者や学者には至らぬ世界。
対象物として向こうに置くことは不可能な世界。
故に古来「真如実相」とは何々に非ずといういいかたしかできないといいます。
真如の外側を撫でるだけ。経典の言葉も詮じれば同じこと。
そこは何度も読んだはずなのにそうなった。
言語の船からおりて岸に上がったんですね。
読誦を行として行うとそうなる。
ただ書籍として読むなら何回読むも同じこと。
行のありがたさはこの「薫習」にある。