大森先生の施餓鬼には色々不思議がある。
施餓鬼は何故効験があるのか?
祈願でうまくいかなかったことが動き出す不思議を感じる人もいる。
それは施餓鬼はご利益をもらうことでなく与えることだからです。
だから僧侶は本来毎日することになっている。
一番最初はどんなスタイルなのかは知りませんがおそらくその習慣はお葬式より古いでしょうね。
信仰ある方は祈願となると皆よくされます。
なにかというとふっとんでって浴油よ。護摩よ。大般若の転読よ…とやる人は多い。
でもご利益の原動力は自分の福徳の業です。
それを使うことになる。無理な祈願ほど大量に消費してしまう。
善因というガソリンあって祈願という自動車は初めて走る。
ガソリンが枯渇していては目的地まではいかれません。
そこに福徳というガソリンを足す行為がお施餓鬼なんですね。
でもそういう行為も欲を当て込んでは善行になりませんのでそこはご注意ください。
「お施餓鬼」は与えること。
与えることを喜ぶ。それでこそ喜捨になる。
「お施餓鬼」自体の意味はそこにつきます。
「財法二施功徳 無量檀波羅蜜 具足円満乃至 法界平等利益」
意味をはき違えてはいけません。