私が霊的問題を扱いませんよと言っている理由は・・・
実は初めから「霊的問題お願いします」というその認識自体が「?」だからです。
霊的な問題とどうしてわかる?
たとえば物理的に不可思議なことが起きている。これは客観的ですからまた別格だと思います。例えば次々事故が起きる、不可解なことが連続して起きる。
これは疑うのももっともです。
一応可能性としては視野に入れていい事と思います。
こういう場合は霊かどうかは別にしてお相手します。
だが多くの場合は自分の感覚だけで言ってくる。
声が聞こえる。お化けが見える。
これはまだ可能性もあるが、当然、精神疾患の可能性も同時に出てくる。
もっと駄目なのは人がそういったというもの。
霊感で見てもらったら霊がついていると言われたという人は多いが、・・・はなはだ失礼ではあるが、そういう霊能者の先生がそもそも精神疾患のただの患者かもしれないというのが私の考えの根底にある。
本当に分別ある人は霊能があってもやたらそういうことはいわない。
正しい霊能は理性や知性に反さずに比例して成長するものですから、智慧のない物言いはたとえ霊感にしても邪霊・低級霊の類です。そんなもんあてになりません。
大体そういう疾患のある人間同士が見てもらい見てもらいで騒ぎ立てる。
「先生、最近、体の具合がどうもなんとなく悪いんですが、・・・実は心配なんです。他社から来た新しい女性社員と折り合い悪くて、何かと衝突するんです。…その子、なんか占いとかオカルト好きなんですよ。ひょっとして呪われたりしてます?」
といったとする。
材料は皆そろっているから。ここで霊能者センセイが
「あ!それってたぶん呪いですね。間違いない。」という結論を出すのはたやすい。
相談者も「やっぱり‼」ということになる。
ここでしっかりそうに違いない!となってしまう。
ことわっておくが霊能者先生が悪意があるとか詐欺師・霊感商法とは断定できない。
ですが多くのそういう方はそういう発想パターンが身に着いているんだね。
この後、どんどん話は煮詰まっていって帰るころにはその女性社員はまがまがしい妖術を使う女ということになってしまう。なったくもってメ―ワクな話だ!
少なくとも私はこういう愚かしい妄想の共犯者には断じてなりたくない。
で、解決策は?というとそういう先生は拝みまでは出来ないから「どっか力のある神社かお寺で呪い返しを拝んでもらって」となる。
拝むと解決しないといけないんで意識的に祈祷の解決策もしないというセンセイも多い。
ただいうだけ。祟りが取れないのは拝んでもらった寺社がダメという仕組み。
そうなると普通の大手の寺社は呪い返しなんてしないから、クライエントはあちこちで断られながら探しに探して拙寺みたいなところに来ます。
では「災厄消除」か「障礙退散」で拝んでおきますというのは智慧のあるところだ。
でもそれじゃ解決しない。もともと何もない独り相撲の場合もあるからだ。
でもそれをいうと大概納得しないので困ります。そういうと怒る人もいるんだわ。
あるいはコイツなんにもわかんないんだ!という侮蔑した顔する。
そんなことでいちいち人とトラブルになっても何もならない。
だから、そういうのはやってませんということになる。
まあ、本当に呪われているかどうかはともかく仏教だったら仲良くやれるよう祈るのが本当だろうと思うのですが・・・。
因みに本当に霊的なことが心配なら、とりあえず大森先生の施餓鬼を頼むというのも手ですね。
万が一呪われていたとしても御味方が増えて霊的防衛は厚くなるから。
※おまけです 吉田神道の魔除けの本「邪神行事次第」天明二年
柏手のこととして、神武帝が神に供物をささげるのに。皿でなく柏の葉に盛った。それが風で飛びそうになるのを抑えたのがはじまりという。
柏手に土金と龍雷の二つがある、土金は普通の柏手のことで慎みの義である。龍雷は雷鳴のことといいます。
ですから神参りに雷鳴がするのはもっとも吉祥なんですね。
土金の柏手に応じて地中にいた龍が天にのぼり五穀豊穣となると解釈しています。
他にもユニークな解釈がいっぱい。
仏教や儒教も神道的に解釈して述べています。僧侶は宝鏡の徳を表すなどと言い
決して悪くいってはおりませんが阿弥陀とは「天邪鬼の義」というのは聊か驚く。
吉田神道は伝授を受けましたが、神道が大事なのはこの国のフィールドに根指しているからです。その点歴史の浅い西洋やアメリカ先住民の魔術などはこの国では効き目は今一つかもしれないと思います。
呪術は共通の民族や宗教の観念を通じてきくの普通なので。