宝篋印陀羅尼と准胝法を普及した江戸時代末期の傑僧・豪潮律師。最後の最後には念仏の日々だったそうです。天台僧だった彼には不思議なことではない。
天台では法華と念仏は同じ法門の裏表です。
准胝尊の印を結んで「南無阿弥陀仏」の念仏して亡くなられた。
日本人は最後は浄土信仰で終わるのかな・・・
准胝様の密印を結んでお念仏しても間違いではない。密教では諸尊は皆大日を通して一体だからです。
私にはさほど熱心な念仏への信仰はないがその気持ちはわかります。
余事を思わず一心に念仏すれば往生浄土というが若い人にそれはなかなか無理でしょう。
また若者が念仏以外興味がないという。そのようでも困る。
念仏が本当に有り難くなるのは年齢が円熟してからではないでしょうか。
人の社会を卒業した晩年は念仏三昧は非常に良いことだと思います。
最近はシニアの恋愛問題とかも聞きますが、七十路なかば・八十路をすぎたらよほど元気な人はどうだか知らないが下手に人を好きになったりしてこの世に最後まで未練を残すのはあまり良きあり方とは思わない。
年を取りもう仕事をするということもないなら念仏に親しむことは優れた高齢者の在り方だと思う。
今回はお経本に源信僧都の横川法語をいれてみようかと思っています。