ひさしぶりに映画を見ました。
「三島由紀夫vs全共闘1000人」
たまたまやっていた。
4月ごろみてみたいなと思ってそのままだった映画。
三島さんも東大全共闘の人らもこれはちょうど私より8歳から10歳くらい上の世代の人の話だ。当時は私は中学生か小学生高学年頃の話です。
まあ、ザックリ映画の題名だけ見ると右翼作家と左翼学生たちの正面対決の様だが、三島氏は学生たちに反米独立主義という共通点を見出す。
話し合い自体は思うよりも結構和気あいあいである。
三島さんも楽しかったと語っていたそうですし。
この討論は政治というより哲学的な話だ。
学生たちは自分たちの哲学を時代に形として創造しようとする。私にはそう感じられました。そして三島氏もそう。
つまりこの両者は哲学を芸術として表現しようとしている人たちなんだね。
たとえば三島氏の徐々に日本なるものへの定義が天皇という形になり、盾の会を結成し、自決するまでは自分で筋書きを立てた一つの演劇であったようにさえ思える。
方や全共闘の若者ものちにも自分の世界を演劇として表現する人もでてくる。
つまり彼らは左翼と言い右翼と言っても究極は自己を表現したい人たちなのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
はっきり言って政治討論にはなっていない。
芸術論にさえも聞こえる。
もっとわかりやすく私に言わせれば超天才の三島由紀夫と最高の頭脳集団である東大全共闘の学生たち、
頭良すぎて私なんかから見たら現実と遊離しているように思う。
正直すごい脳みそなのだろうと思う。
すごさも正直わたしが比するにバカすぎてよくわからないのだが・・・
でもあまりに哲学的なるがゆえにそこは観念論の世界なのだ。
何がどうにかなったら誰かが困るだろうが!それが理不尽だとわからんのか。このタコ‼という討論じゃない。
密教では観念論の遊びを戯論という。
彼らにくらべて人とサルほどと言ってもいいくらい知能の劣る私がそれを戯論といい捨てるのはいささか乱暴に思うだろうが、実際に生きていくのに生きづまって死ぬ哲学者はいても、自殺するサルはいない。
猿は生存にこそ意味を見出し自殺に意味は見出さないから。
だからサルには哲学書よりバナナが大事だ。
動物的な生理的な人間存在はサル類といってよい。
逆にそういうものをから離れて哲学から出発しようとする立場を哲学者的というなら社会の多くの人をサル(生き物)としてとらえないと政治にはならない。
私もどちらか選ぶならバナナだね。近いのは哲学者ではなくサルなので。
酷い言い方をすると三島さんの自衛隊での自決事件や学生たちの安田講堂の合戦は何かを変えたのだろうか。
どちらも庶民にとっては深い意味はなかったように思える。
少なくとも市民的に考えれば事件に対する驚愕はあっても彼らからのメッセージはあまり受け取られてはいないように思う。
何故ならどちらも明日を生きる庶民にとってさしあたり重要でないと感じられたからだ。
それはあまりにノンポリな考えだというなら尋ねたい。
果たして日本の歴史のなかであれがあたったか・なかったかで、何か大きな流れの変化になったのだろうか。
彼らに比べると哲学なんかより餌のバナナや住処の森にしか関心のないサルに過ぎない私にはそこは見えてこない。
そして政治の使命は哲学には関係ない。いかに多くのサルを豊かに暮らさせるかだろう。
宗教者の末席を汚す私も生きる役にたたない宗教的真理などというものがあるならそこには何の興味もない。