昔、お坊さんではなく、唯識を研究しているという方に逢いました。
非情によく勉強していて私などのレベルではたぶんお話にならないでしょうね。
私なんかは例えば瑜伽唯識系の「解深密経」なんか読んでも、何のこっちゃ?って程度の脳味噌ですから。
「非常に論理的で素晴らしい哲学です。」というので
「なるほど…でも大乗仏教は究極的には哲学じゃないというのが私の考えです。」
「・・・どうしてでしょう?」
「例えば唯識ですが、じゃあ、その阿頼耶識だの末那識ってだれのです?」
「それは学んでいる私のみならずすべての人に言えることだからやはり哲学でしょう?」
「そのすべての人だの、私だのっていうのは誰?そこを原点において出発したら大乗の根幹にある空の思想と矛盾しますよね。」
まあ、その方は瑜伽唯識と中観派がどうこうと色々仏教の考えの違いを指摘して説明してくれましたが‥‥そういう違いを強調すればするほど「じゃあ、仏教ってなんだ」は逆にあいまいになるね。
そこはどうなんでしょう。
唯識は実に納得いく面がある。唯識でわかる!はある、
だがわかるは悟りとは別だ。
こう説明できるということが真如を知ることと一つとは思わない。
説明はいかに素晴らしくても説明でしかない。理解の方便だ。
そこで終わるなら仏教も哲学だろう。
だがそこはちがうでしょう。
ゆえに議論のための議論を戯論という。