菩薩は如来の功徳を随喜する。
喜ぶことです。
お葬式のような不祝儀でなく、よくお寺などの行事で営まれる法要に参列することを随喜と言います。
これも法要の功徳をうけて喜ぶことです。
喜びは大事な徳目。
如来の功徳ならずとも 、人も頂いた功徳を喜ぶのも大事です。
それにより功徳を自分も受けられるのです。
ただ功徳を喜ぶときに余計な評論や見解はいりません。
そういうものは随喜でなくなる可能性があります。
昔、私の師匠寺では年末に集まってうけた御利益を感謝する。つまりは随喜する会を催していましたが、いつの間にか自慢大会みたいになってしまった。
感謝でなく「自分が偉いのだ、こんなこともあんなこともあったが皆切り抜けた。」という風になってしまった。功徳を失うことになりかねないので、ある年からやめたと師匠から聞きました。
こういう人は罰が当たらなくても早晩だめになる。
自慢の心は比較の心。
随喜どころか人の功徳にケチつけかねない心です。
ただ喜び合う。
これは案外難しいことですが、それは我執を削る道でもある。
純粋に喜ぶことはなかなか大事な修行です。