伝教大師は差別なき平等は真の平等ではないと言われている。
最近の風潮として何でも差別だと言い放つ。言われた方はあたふたとよく考えずに火消に躍起だ。
私は感心しない。
ここで差別が良くない理由を考えてみたい。
差別的行為の良くない理由は、社会的に人種や民族、性別、性的思考などあるカテゴリーの人々を疎外するということにより、その人たちの人権を傷つけ損害や不快感を与えるからだ。
前に九州のある県で暦に六曜があるのは差別だと言った教育委員会があって配布した暦をわざわざ回収したという。ハッキリ言ってバカだと思う。
唯物論の日教組あたりが牛耳っている教育委員会が言いそうなことだ。
無用だと思う人はそこを見なければいいだけだ。
最近は葬式で塩を配るのも不浄感で差別だという。
ハッキリ言ってこういう類はただの思想の押し付けでしかない。
無用な人は使わないければいい。
むしろ一種の宗教差別だ。
そういうくだらないことまで差別だと言われると私は正面から反発する。
そんなことで差別主義だといわれてもいささかも恐れない。
そんなことを言っていては霊的ルールが守れないからだ。
拙寺では女性の生理の御守りは今でも出しているし、生理中は聖天様などはお参りは遠慮して頂いている。
大峰山の女人禁制も守るべきと平気で言う。
ではなぜ女人禁制なのか?理由はない。先ほどの生理の件もそうだ。
理由などない。
あえて言うなら霊的にそういうルールだからだ。
例えば大峰山山上ヶ嶽の女人禁制は役行者以来の伝統だ。
逆にそこに宗教的なルール以外に理由があれば差別だろう。
もっとも登山としては性別は関係なく誰でも構わないと思っている。
登りたきゃ登ればいい。
ただ修行と言う形で女性を含むのは断固反対する。
だから大峰山修行の女性参加に関しては反対だ。
それが修験道の霊的ありかただからだ。
女性が大峰山に登山にっても構わないが修行者はあいさつはすべきではない。
挨拶されても無視でいい。修行の世界では女性はいないのだから。
逆に尼寺や女子修道院に男を入れないと差別と言うのはおかしいだろう。同じ理屈だ。
開放されている修道院でも一般の修道士は観光客などと口を利かないのが普通だろう。
沖縄なんかは逆に男性は入っていけない霊場は山ほどある。そこは全然腹は立たないし行くべきと思わない。そんなのは差別じゃないからだ。
なぜなら、いくら形の上で差別であっても、それが社会一般には反映されるものではない。隔絶した範囲のルールだ。
沖縄諸島で男性の社会的地位が低いわけでも何でもない。
大事なのはそこなのだ!
そういうところに入れないのは男性に対する差別だという奴がいればそれはバカのいうことだ。
西表島には地元民以外は宗教的に言ってはいけない地域さえもある。
そこへもし「それは差別じゃないか!許せない。」と無理やり制止を破り踏み込む奴が居たら思い切り軽蔑する。
蛇にでも噛まれればざまあみろだ。
そんなことより最近は霊棺車は縁起が悪いからそれとわからないような外装にするという県があるそうだがそっちの方がよほど差別だといいたい。
墓地もそうだ。近所に墓地があるのは同じ理由から反対とか。
「アンタらは死なないのか?」と問いたい
死者に対する畏敬の念が全くない。
そういうのは死人に口なしで差別とは言わないようだ。
死者は不浄でhないから塩を配ってはいけないなどと言いながら
私はこれこそ差別だと思う。
霊柩車を見れば「ああ、どこのどなたかは存じあげないが人生終わったんだな、ご苦労」と思って手を合わせる。
お墓を見れば「ああ、みんなあそこで供養されているんだ。」と温かく思う。
墓がなくてお骨がごみ扱いになる世の中だ。
墓が見たくないなら死者はゴミとして処理するほかないだろう。
此れこそ差別の極みだ。死者にも人権はある。
そういう矛盾に満ちた世の中でなにかというと差別だ!という声に無条件に恐れてひれ伏し、声を同じくする気などバカバカしくて私には毛頭ない。
みんな全く同じでないといけないというのは危険思想だと思う。