かなり昔だが学校の体育の授業が嫌で体育館に火を放った生徒がいた。
体育の授業に出ないで済むためには授業ができなりさえすればいいのだと考えたのだろう。
実に愚かな考えだが悪い方向に思いが煮詰まると大人でも容易に同じ考えをする。
そしてこれも大部以前だが伯母が交際している男性を調伏して欲しいという人間がきた。
理由は伯母は身寄りがない、しかも高齢だ。
そこへもってきて変な男と一緒にならなければ死後の遺産は唯一の兄弟筋の自分の母のものだという。
だからその付き合いっている男を祈り殺せと言うのだ。
あきれたもんだ。
勿論、そんな馬鹿な話を聞くわけにはいかない。
「成功すれば私は先生にも大きいお金を上げたいんです‼」と抜かしたが、「誰がそんな薄汚い金などいるか!」と言って断ったうえ、アンタのようなものはもう二度と来るなとまで言ったのは当然である。
これなども金が欲しいという何か事情があるのかもしれないが、金が手に入るには金を持っている伯母の財産が自分に家に転がり込んで来るほかないという実にあさましい愚かな考えをするわけである。
ほかの方法だってあるはずだ。そうやって筋道まで限定してしまうことにより悪魔の考えが生まれる
たとえ、自分は今なにも考えられなくても本尊はきっと解決を知っていると考えるのが真の信仰だ。
それなのに悪事を画策し、しかも神仏に手伝わせようとする。
これなどは大の大人が先の体育館を焼いた子供にも劣る実に見さげ果てた考えである。
信仰あるものは手立てを限定して考えてはいけない。
悪事でなくても、たとえば「どうしても子供を有名な医大に入れたい。」という親心にも間違った考えが潜んでいる場合もある。
聞いてみると良い医大を出て医者になればお金に不自由しないで済む。お金に不自由しなければ幸せだ。
だから幸せになるには医者になるほかは考えられない。という単純な論法に固執しているだけの場合も多い。かくして子供の意志は無視されて長く親子の葛藤となる。
私は「子供を○○にしたい」という希望は先ず子供がどう思っているか聞く。
子供が望んでいないなら断る。子供でも人格は別だ。
人間が生きる道はいくらでもある。困ったときは悪事など考えないで活路も神仏に任せよう。
幸せも随所にあり、不幸も随所にあるのだ。場所は関係ない。
信仰あるものはあまり限定的にものを祈願しないことだと思う。