時々、病気になったり年齢的にもうお参りできないから信仰止めるという連絡を受けますがそんなもんじゃおかしいですね。その考え。
負担になっては申し訳ないという気持ちなのだろうが・・・
お金の切れ目が仏縁の切れ目ではない。そいつは淋しすぎる。
払えるべきものが払えないのはダメだと思うが生・老・病・死は生き物のサガだ。
長く信仰してそうなったならもう何も心配しないでそのまま在籍して最期まで行ったらいい。
最期に身寄りなく生活保護まで受けて講員のまま往生した人もいる。
そこまで行ったらもうお金じゃない。
年取らぬ人も、死なない人も病気しない人もいないですからね。
かくいうわたしもいつか消えていく。
でも私がいるうちは受け皿になってそうしたいと思います。
子供や孫がいない。
いても全然無関心な人も多い。
神仏だけが最期で寄り添う唯一の存在という人だっている。
そこで信仰やめてどうする。買い物じゃないよ。
でもこれは信徒はどうもできない。
宗教家が利益でない部分で考えないといけないです。
いいんです、お金とかは心配ないですといえないといけない。
これからはそういうことを真剣に考えないといけないですね。宗教家は。