むかし、私の師匠が十一面観音を如法に信徒用に白檀で作った。
「陀羅尼集経」の所説で一肘のおおきさで総白檀であった。
10体ほど作ったが、これを勧請して持ちきれない人が返しに来た。
しばらくしてその人が祈願のお札を頼んできたが、師はこれを断った。
「お札だから、お像だからと言って信仰に変わりはない。観音様に失礼だ。お像がお守りできないなら祈願札もおまつりできない。」といわれた。
十一面観音の尊像は実際は保ちがたい。
分霊をもらったほとんどの人が返してきて、私とK師、N 師と言う出家した人だけの手元に残った。
だがそれだけにこれを勧請するというのは覚悟のもとにすること。堅固な信仰のもとにすべきことだったのだ。
それから退転した人に元のようにはいかないのが信仰だ。
たとえばうちも講員を辞めてしまって、外部から再度、祈願や相談を頼んできたら断る。
病気とか経済難とか他動的原因でやめたケース以外に再入講は基本ありえない。
理由は「信仰を捨てた人にうちは用はないはず」だから。
辞めた人はもう過去の人だ。切れた仏縁が縁の切れ目だ。
私との個人的なつながりなどは初めからないのだ。
やめればもとよりまったくの他人だ。個人のしがらみなどははじめからない。
だから信仰の外にいる人間関係はずっと外でいいと思っている。
何を勘違いしたか、付き合いで入講なんかされては大きな迷惑だ。
そんな人のお布施など欲しくはない。
同時に「付き合いで新宗教に入る羽目になった」という人もやめて頂く。
信仰を付き合いでするのは納得できない。
なぜそういうのか?信仰はそんな軽いものであってはいけないと思うからだ。
そういう信仰はいざとなって何の役にも立たぬ張り子の虎のような信仰だということが露呈するだけだ。
しない方がましだ。
前と同じような調子で「また頼みます。よろしく。」はあり得ない。
やめたからと言って別段悪感情などはない。その人の勝手だ。
相談がなく自分で決断したら私のあずかりしらぬことだ。
やめる人を止めることもしない。
だからあっさり「あ、そうですか・わかりました。」で終わるが、二度はない。
けじめのないのは嫌だから。
やめた人はどうか振り返らず別な道を行っていただきたい。ご多幸をと思う。
体調不良や別段の理由なく還俗した人も信徒として在籍は不可です。
「あれだけ得度、得度と言っていたけどそれは大した覚悟もなく得度したんだ・・・」というなによりの証拠だから。
そのよういいかげんな信仰の人を院内にとどめておく気はさらさらない。