私の課題として最期に向かい合うべき本尊は三宝荒神だと思っています。
荒神は「元品の無明」を本体とするけど、金剛薩埵の垂迹。
金剛薩埵とは密教行者の代表的菩薩。つまり行者そのものを言う。
そして愛染明王の化身です。愛欲の煩悩を当体と数する明王。
「元品の無明」とは根本煩悩
初期仏教の課題はこれを断つことでしたが、密教では荒神供が三密瑜伽の対象。
つまり煩悩を相手に三密瑜伽する。
これこそ究極の在り方だと思う。
無論密教では煩悩は悟りのアンチテーゼでない。
煩悩の奥に仏の世界はある。
じゃあ煩悩のままでいいのか。
煩悩でも悟りの眼から見た煩悩と迷いの眼から見た煩悩では違うはず。
「煩悩即菩提」は悟りの側からこそ言えることだと師から教えられました。
菩提を知らずして煩悩は煩悩と認識できない。
同時に「荒神放射捨法」というのもあってこれを発遣する。
すべての作法に妨げなす存在。
恐ろしいがもっとも我々の深奥にかかわる存在。
それが荒神。
荒神とは何かが理解できれば、そこに本当の意味の煩悩即菩提の理解も生まれると思うのです。
無論体得しなくては駄目で言葉にしたら陳腐なものにしかならない。
言葉は心の標本でしかないから
生きた動物は標本ではすべてはわからないのと同じです。