金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

呪術としての神仏

密教で言えばこの世のすべてをあらわしているのは大日如来。

法華経では久遠実成の釈迦牟尼仏ということになる。

仏教と言う範囲で言えばそういうこと。

じゃあエホバは?アラーは?といわれるとどうなるのか?

それらは仏教のうちの概念に無い。

宇宙観は宗教によって違うから。

だから宗教的に言えば違う宗教に入ってそこの本尊のことを問うのは無理です。

 

しかし、呪術的にはそれらは皆我々の集合無意識の形態としてとらえらえる。

至高の存在をどう意味づけする?それによって意味内容は変わる。

このレベルではまさしく神仏は人の至高に対するイメージが造ってきたレベルです。

宗教以前にそれらは概念としては存在しないのだから人類より後にある。

 

私がよく言う、恐竜時代に大日如来はいたのか?という問題。

我々がそう呼ぶ存在は永遠の過去からある。

「本不生」の存在です。

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だがだれも認識できないから「大日如来」としては存在しない。

これは創造主エホバもブラフマンもアメノミナカヌシノミコトも同じことです。

 

創造主でなくても日天と日光菩薩と天照大神はどう違う?

これらも同じこと太陽の神格化であることは変わらない。私たちの星系に太陽はいくつもない。

だから同じもの、概念が違うのみ。

だからこれに祈れば微妙に違う。

そうしたところを知っているのが呪術の考え。

宗教だと日曜星君と天照大神とスーリヤ神とどれかが正しい太陽神ということに。

無論宗教としてはそれはそれでいい。そうでなくては宗教にならないだろう。

 

ただ呪術は微妙に違う。現場での霊の問題など宗教に収まり切れないこともある。

私の師匠とエクソシストの話をして「もし、西洋人などお加持した場合、憑霊状態の悪霊が十字架を怖がったら使うべきでしょうか?」と言う質問に対し

「使ってよい」と言うのが答えだった。

宗教としては考えられないかもしれないが呪術はそうしたもの。

あくまで相手は人の心のフィルターを通した存在だ。

有史以前の古き悪魔そのものなどではない。

効果があるなら何でも使う。

それが呪術だ。

その点で密教が呪術にむいている宗教なのはよく分る。

いかなる異教の神、悪魔も存在のものを否定せず曼荼羅の外金剛部に摂するからだ。

彼らもつまるところは大日如来を離れた存在とは考えない。

 

最近のスピ系の方は神も仏もゴッチャゴチャでギリシャの神様まで出てくるが、そのへんが判っている人はまったくもって少ない。

ただ、ただの無知のゆえにまぜこぜになっているだけというのが大半のように思う。