如意輪観音様と言うと女性的で優しいイメージです。
三井寺の如意輪様などは本当にあどけない童女のようなお顔をされています。
でも実際はそんなに甘いお方ではない。
私は何度もそれを実感している。
私にとって観音と言えば本尊の十一面様、次いで馬頭観音ですが、如意輪様にもおたすけ頂いたことは多いのです。
特に修行の道においてはもっとも積極的に働かれる。
今日来られたお坊さんは深く如意輪様を信仰しているがどうも如意輪様は意に染まないことを悉くに邪魔されるという。
拙寺の如意輪観音様
逆に言えば導いてくださる観音なのでしょう。
手にした法輪はもともとが車輪なのといいます。
釈尊の獅子吼はすべての煩悩を粉砕する轍(わだち)だというのです。
如意輪様はまるで馬車の御者のように行くべきところに信仰のひとを導く。
たとえ観音様のお考えが意に染まなくてもそれを避けることは困難。
如意輪観音の示現にあうとき他人も自分も我が運命を構成する存在はすべて轍の上に乗る。
そんな世界が展開するように思うのです。
思うにこれはタロットで言う「運命の輪」である。遁れられない。
そこは十一面様とまた違った意味で有難くもコワイ観音様です。
十一面様と現れた観音様には「わたしは知らない。自分で考えるがいい」と言う冷暖自知の峻厳な厳しさがあります。
だが如意輪様はたとえ逆らっても逆らっても「そちらへいってはならぬ。こちらだ。こちらへ来なさい。」と引っ張っていく。
十一面観音も如意輪観音もいずれも同じ観音様の別々な顔であり、その在り方も畢竟救いの手立ての違いに過ぎないと思います。