もし幸せな人生を歩みたいなら自らの器と言う者を知ることが大事だと私は思います。
ある行者さんがいた。
もともと採燈護摩の手伝いなどしていたが得度して本格的に行者の道を歩み始めた。
町の拝み屋でいる内はとても評判が良くいい行者であった。
その人がひょんなことから地方の法人寺院住職となった。
最初は喜ばれていたが、だんだん経営が怪しくなり、すったもんだした挙句ついに寺を出ることとなった。
ようするに拝むことはよくできても寺院の経営ということが無理だったようだ。
思うに市井の拝み屋さんでいれば安泰だったのだ。
このことから人には器があるということを如実に知った。
同じように事業経営も誰でもやれるものでもない。
では町工場で働くのもはどうだろうか。
これも誰でもできる単純な仕事が多いようでそうではないと思う。
単純な仕事でも満足して続けて行くことができるか否かが大事だ。
いわば、それに従事して満足を感じることができるという「器」が要求される。
ドジョウ掬いから政治家までその器が要らぬ仕事はない。
むかし本山の観音堂の手伝いをして、いっぺんに、ドッと人が来て口々に「御守りくれ」だの「御朱印して」だのと言われてわけわからず、此れも一種の器がいると思った。私では無理だ。
慣れもあるだろうが向き不向きもあるはずだ。
霊場の参拝者に順番に「いっぺんに言うな!一人づつものを言え」とも言えない。
犬はよくお手をする、ほかの芸もよく憶える。
だが猫はお手をするのは少数派だ。
※お手をするオハナちゃん
野生の狐やタヌキはほとんど無理だろう。
だからと言って犬に比べ猫やタヌキや狐がすべてに劣っているとか馬鹿なわけではない。
犬は人とのコミュニケーション能力が突出しているという器なのだ。
人間も同じだ。それが器である。
器でないことをさせられるのは不幸だがやめることもできる。
器でないことを望むのはもっと不幸だ。
自分の器を知る。
それは幸せな人生の第一歩だ。