お札は「如意祈攸」と書くものが多い。
攸はところと読みます。
つまり思うが儘に意のごとくということなのだろうが・・・
実際はなんでも思うままとはいかない。たいていはね。
本当になんでも思うままの人は例外なく大きく転ぶ、それは本尊ではなく毘那夜伽に取り込まれていたからだね。しまいに転ばすのが目的。
正しく聖天様信仰したら毘那夜伽に善神になる。
彼らは「正しく」と言う判断はできないのだ。だから聖天様のところで修行してる。
だけどもともと魔ものだから悪性も宿しているんです。
どんどん出世したら神様レベルの四部大将や金剛面天のようなものもいるけど。
計画的に毘那夜伽使って大儲けして途中から正しい信仰したらどうなる?って聞いた人がいた。
そんなことやる気なのかね。
多分聖天様に全部吐き出させられる。今までの毘那夜伽信仰の分はね。
一からやり直しさせられると思います。
神様はそんな賢しい人間の悪智慧に欺かれるものではない。
だから遠回り。
最近思うのは「如意」とは我々でなく天尊の意のごとくだと思う。
自我を立てないで聖天様がおまえにはこれをやろうというものが本当に良いものだと思う。
私の師匠が聖天供を授かった即真周湛お座主様は年に一回大晦日だけ浴油なさった。
お授けを受けに行くと、失礼ながらご自坊は隙間風の来る破れ障子もそのままでお座主の御座所にしては案外のわび住まいであったらしい。
「私は財には縁のない人間のようだ。でもそのかわり聖天様が座主になるまでに導いてくださった。すべて天尊のお計らいだと思っておる。白戸さんもしっかり拝んでください。」といわれたそうです。
財も人間関係も名声もすべて満足というわけにはなかなかいかない。それが運の個性というものだ
使呪法経に「順世の法に随って」というのはこういうことでもあるのでしょう。
だから精進して尊天がお前にはこれをやろうというものを有り難く頂いて生きていく。
それが本当の如意だろうかと思います。
毘那夜伽はなにも聖天信仰だけのものではない。
「蘇婆呼童子経」なんか見ると。四天王でも帝釈天でも祈ればついてくる。
弁才天でも大黒天でも天部信仰ならつきものと思えばいい。ご用心ください。