古来、聖天様の信仰は難しく、得られた御利益は保ちにくいという。
人によっては常随魔の首領だからだとか言うけど・・・でもそれは違います。
勝って兜の緒を締めるのは信仰も同じです。
祈願がかなった時ほど危ない。
勝戦だとか言って手放しでうかれていると宴のさなか、なだれ込んでくる伏兵にやられる。
特に大きな祈願が叶うと自分の実力だけでなったと錯覚する。
当然実力がベースには決まっているが縁がなければものはならない。
その縁を結ぶのが神仏です。
あるいはどんどん欲が膨らみ、その気持ちが大きくなって邪の心にまでなる。
邪心、慢心は尊天とはつながらず常随魔の「毘那夜伽」とつながる。
そして落とし穴にに堕ちる。
尊天を魔神だとか怖い神様とか言うのは勝手だが皆身から出た錆だ。
だから慢心、邪心から己の心をカブトを締め直して守る!
では尊天はそんな危険な眷属毘那夜伽を何故退治しないで自由に放ってあるのか?
それは邪心・慢心を戒めるために彼らが必要だからです。
大事なことはご利益には責任があるのだということ。
大きいご利益をもらえばもらうほど。
あります。責任が!ここがわかるわからないで現世利益の信仰は毒にも薬にもなる。
それがわからない幼稚な信仰は落ちていきます。
でも毘那夜伽は悪く言えないですよ。落ちていく人と同じ心だからね。
毘那夜伽は修行中の身、尊天からいわせれば、それをそそのかして美味しい餌で釣ろうとしたのは毘那夜伽でなくお前だということになる。
一蓮托生・沈む船に乗ったのはほかならぬその方ご自身です。