君子というととても偉い品行方正の完璧な人のようですが、伝教大師様は「道心のある人を西には菩薩と言い、東には君子というのだ。」といわれ、君子は教えの違いこそあれ菩薩と同じく道を求めるという点で同じだとしています。
ここに伝教大師様の宗教の違いはともかく、「道」を求めることこそが人として最も大事なのだという姿勢が見える。
その「道」とは一人行く道ではなく、社会のためによく言い良く行う道です。
だから迷いがいかに多くてもへっぽこでも、私のような蚊や蟻にようなものでも道に志すものである以上は一応は菩薩であり君子の末席を汚すものであります。
君子も菩薩もベクトルの問題であって人の資質ではない。
その君子の教えに「君子の交わりは水のごとし」というのがある。
水のようにあっさりしたものでべったりとした交際はしないのが君子の交際だという。
菩薩の交際も全く同じでしょう。
一流の宗教家というのは遠くに見れば実に温かく慈悲深いが、だからと言って近づけばより暖かく慈悲をくださるかというとそうではないものです。
若いうちは、それは不思議に思っていましたが、それは私の考えがまちがっていたのですね。
どんな方にどれだけ近づいても同じです。弟子などになればむしろ峻厳を極め、冷徹な顔ばかり見ることもある。
でも暖かくても冷徹でもその心は同じです。必要な言葉や態度をとるのみです。
修行の道に入ってからよくわかったことです。
菩薩や君子にも当然、好悪の感情はあるでしょうが、でも個人的好悪を主に人に相対してはいない。
だからその付き合いは淡々としている。
宗教家ではないが剣豪・宮本武蔵も「いずれの道にも別れを悲しまず」という。
彼の標榜する道は「独行道」ですがやはり後人のために書を残した同じところに達した人の言葉でしょう。