伝教大師の言葉「照千一隅」
でもこの言葉、千なのか干なのか微妙だという。
干なら一隅にかかわりて照らす
千なら一隅より千を照らすになる。
師匠は「これは後者だ。隅っこを照らすというような伝教大師の理想は小さな親切運動みたいなものではない。」といわれた。
たしかに伝教大師は国家のために「よく言い、よく行う者」の養成を目指してきたからそれはちがうだろう。そんなちまちました分限に置いてすればそれでよいというようなことはいわれていないと思います。
実は昨日読んでいた法華経の「薬王菩薩本地品」で改めて気が付いた。
一切衆生喜見菩薩がたくさんの香油を飲み、身体にも注ぐこと1200歳して自ら火をともして八十億恒河沙の世界を照らしたたとある。
焼身供養。
私の知っている話ではさる日蓮宗のお上人は手のひらに香油を盛り火をつけてそれが消えるまで題目をとなえるという荒行をされていたという。
掌の中ほどはいつも黒くなっていたらしい。
これは私の武術の師であったN先生が子どもの頃お母様に行くよう命じられたお寺のお上人の話。
このお上人も武術の心得があり、忍者のように天井にもするすると登ったし、焼火箸で信者の背中に題目を書くという荒技もしたという。
修験で言う「鉄火三昧」である。
背中に題目を書かれても熱くはなく、それでカラダが楽になるという不思議を行なわれた。それでいつも善男善女がそれを求めてくる。
実際、大昔は体を一切衆生喜見菩薩のように焼いてなくなった行者もいるという。
すごい信仰心だとは思うが・・・・
でもよくよく見るとこの菩薩は12000年お修行をしてすでに一切色心三昧を得た大菩薩でいわゆる普通の人ではない。
一切色心三昧とは大乗仏教の理想、普現色心三昧と同じでみずからを虚空に遍満しあるいは現す、自由に変化させ六道の制約をうけない無住所涅槃のことだ。
だからもう普通の存在ではなし。第一普通の人12000年も生きてはいないし、1200年も香油を飲むことも不可能だ。
この薬王菩薩本地品にはほかにも日月燈明仏、宿王華菩薩という方々が出てくる。
宿王とは星宿王である北極星のことだと教えてくれた人があった。
つまり、日月星という天体の仏様が出てくるのだ。
つまり天体のごとく一切を照らす菩薩であれというのが法華経の理想だと思う。
だとすればやはり照千一隅だろう。
一切衆生喜見菩薩も一切衆生が喜んでみる。太陽のイメージだと思う。
私は「照千一隅」は「薬王菩薩本地品」から出たのではないかと思います。