金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

にこやかにお茶を

このところ毎日法華経を呼んでいると色々思い出す。

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大学を出たかでないかのころ、仏教書のコーナーにいたら「あなたはなにか仏教を信仰してますか?」「ちょっとお話しできませんか?」という同じ年くらいの男性に声かけられて近くの喫茶店に行った。

このころの私は他流試合をまだしていた。

おてまえに一手御指南願いたい!という奴だ(笑)

「しからば、とりあえず道場に」ということで近所の喫茶店に。

 

男性は法華経信仰の人で今は過激で知られる法華経信仰団体の前身で「なんとか講」のひとだった。当時の団体の名前は忘れた。

まあ、目的はいわゆる折伏しようということなんでしょうが、こっちは身なりは俗人でも一応は坊主の端くれだ。

おいそれとは負けられない。

 

まあ、話してみるとまじめで礼儀のある人でよくあるような人を見下したやな感じはなかった。いい人だったと言ってよい。

そんな話の中で「天台宗は法華第一と言いながら般若心経とか読むのおかしくないですか?あれは明らかに爾前のお経ですよ。最高のお経を知りながらなぜ劣ったお経を読むのですか?」といわれた。

確かに法華が最高とは天台でいうが、この話をするとき問題なのは「最高とはどういうことなのか?」ということだ。

ただ最高とか、最第一とかということだけでものを言うのは大間違いのもとだと思う。

最もバカバカしく相手にならないのはお経にそう書いてあるというしか知らない人だ。

彼は一応、法華の教えのなにが最高なのかは彼なりに語ってくれたが…悪いがよく覚えていない。

ただ私は安楽行品のなかに「一切の諸法は空にして所有なし、常住あることなく、また起滅なし。これを智者の親近所と名づく」とあるが、智者の親近すべきというこれは般若の教えそのものではないか?

ゆえに天台大師は般若を仏教の通概念としてこれを通教と呼んだのだろう。

基本の教えならそれを学び、あるいは唱えてなんの不都合かある。

むしろしっかりと学ぶべきではないか。

たとえば高等数学を学んだから加減乗除の基礎は無用というのか?そんなことはあるまい。

もし、あなたが般若経で言う「空」とここ法華経でいう「空」が全く別ものだというなら、それこそ何をもって法華を上というのか。上とか下とか言うには同じ教えの基盤があってこそで、名のみ同じで概念が全く違うならただ別物だというだけではないか?

と言ったのはおぼえている。

 

この話の後、だんだんお経の話はやめになってただの世間話になったが、まあ大事なのは法論よりに見ず知らずの人間がこうしてこやかにお茶を飲むことだとその時思った。

いまでも思いはそうです。