私の修行したお寺には当時、何人かの弟子がいましたが、私以外は皆、霊能者でした。
ある女性は信仰宗教で手のひらをかざす施術されてから、もういろいろな声が聞こえておかしくなりそうになった。
致し方なくその宗教に相談した。
結果はその宗教の人では納められなかったがもう納まってているはずと無視されたらしい。
この人は方々救済を求めて有名な仏教者から神道の行者まで尋ねましたがダメでした。
最後にわが師匠のもとに来てお加持を受けました。
でもよそよりは手ごたえはあっても解決しない。
それで立願して100日間庭を掃除しました。
100日目に神がかりして手が高々とあがり修行の道に入りました。
その後。刻苦修行してはやばや聖天供までするに至ったけど、あることをきっかけに中途挫折していましたが・・・。
晩年、再得度してようやくまた修行をはじめた。
その間、私の武術の師範に手技で施術してもらってドロッとした肉塊みたいなものが鼻から出た。それでおかしな霊障はほとんどなくなりました。
武術の先生にいわせれば脳内に瘀血(血の塊)があってその影響だったのだろうとのことでした。
本当はどういうことなのかはわからないが相互に影響していたのかもしれません。
もう一方は私の先輩の女性、ある時から頭が割れるように痛くなり、師匠からこれは普通の信心ではダメで仏道修行するよう言われた。
彼女はそれが嫌で嫌で頑強に抵抗したがつい折れて修行の道へ入りました。
霊媒として師の祈祷を助け、私も多くの薫陶を受けたが癌で師匠の死後をおうように若くして亡くなった。残念でした。
あとひとりは今、千葉で住職をしていて私よりずっと年下の男性、様々な霊に苦しめられたが苦しめられたが、だが彼は神仏を呼ぶことができた。生まれつきだと思うのですが・・・。
神通広大でその活躍はコミックにもなっているくらいです。
その筋では有名で時々知らない方から霊障があるから紹介してくれと言われますが一切そういうことはしない約束になっています。だから絶対いたしません。
私といえばやはり霊にいろいろ影響されてはいただろうが、私に限っては他の人のように霊障というより精神が惰弱だったためだと思っている。
私には特に霊能力というほどのものは何もないが、学生のころ、夢のなかで霧の中、湖上に鳥居が立ち「諏訪の稲荷大権現」というのが現れて以来、独特のカン働きがあった。
当時私は諏訪湖というのにまだいったことはなかったのです。
諏訪明神のご眷属かなと思った。
だが、聖天信仰をしたらそういう感覚は一切なくなった。
特に修験の南奥駆けで熊野本宮にお参りしてからゼロになった。
師匠は「それはよいことだ。そんなのは修行の邪魔だ。だが33年たったらご守護神が戻ってくる。」といわれました。
なぜだかわからない。霊媒した結果の話なのかもしれないですが。
そんな風でいずれも解決に至るには長い長い物語です。
沖縄では女性特有の「かみだーりぃ」という憑き物があり、まあ、国内でいうところの憑霊現象と同じ感じだ。
多くの人はこれをとるのに延々と「うたき」という霊地参りをくりかえし、くりかえしてして、ようやく薄皮をはぐようによくなることがあるか、ユタという宗教者になるということで帰着するそうだが、私の経験から申せばさもありなんと思うのです。
私の後輩だが年配の男性の弟子もいた。この人も典型的な街の祈祷僧で一種の霊覚があり、四柱推命をよくして祈祷もすぐれていたが、何かがのりうつるという霊障ではないが持病があり苦しんだ。これは因縁の病なので自分では治せないと言っていた。
この人も早くに亡くなった。
いやはやご苦労なことだ。
ですから霊障解決したいなどと言われても埃を払うように簡単にはいかないのを百も知っている。
錫杖などふって祭文や経文を唱えてお加持すれば一時的には解消することも多い。
だがそういう外的な方法ではなかなか根治には至りにくい。心得のない下手なやりようでは悪化することもある。
そういう対処療法だけでやっていって場合によっては何年も何十年も長くかかる。
これは本当のところは人修行によって霊的にもそのレベルをあげるほかない。
この修業とは宗教的な方法に限定しない。
そこに人間としての成長がなければ100万遍の真言も無意味だ。
そこへ行くとコンタクトしてくる方はほとんど一度や二度で何とかしてもらいたいつもりで来るから簡単に要求には答えられない。皆断ることにしている。
抜本的解決にはその人そのものが変わるくらいの修行と覚悟が必要なのだと思う。
一方、お化けが出るとか、霊現象が起こるなどという内的体感覚や精神から離れた現象はこれに比べればまだずっと扱いやすい。