観音信仰だろうが聖天信仰だろうがそれは心の師を持つことといえよう。
そう思える人は正しい信仰があるのだと思う。
常に心のなかにその声を聴くことだ。
それには時間がかかる。
観音信仰にせよいかなる信仰にせよ、信仰してみてそのほとけがわかってからのことだ。
観音様ならきっとこう思う。観音様ならそんなことはいいとは言わない。
自らのうちにそういう問答ができる。それには観音様のことをまるきり知らないではそうはならぬ。
それこそが生きた信仰だ。
たまさかご利益があったからと言ってアラジンの魔法のランプが手に入ったとか思わぬことだ。
初心のうちはそれもあろうが、アグレッシブに何かを必死に祈るというより、正しい方向で信仰が深まるほどにそれはもっともっと限りなく受動的なものだとわかると思う。
苦の娑婆に掉さす船を漕いでいくのはあくまで自分です。
誰も漕いではくれぬ。
願わくは心に声を聴きながら掉さすことだ。