むかし、ある信徒さんが大福生寺の御宝前で師匠に「私は目が悪くて困ります。なんとかよくなるよう拝んでください。目の代わりに手の一本くらいなくなってもいいくらいです。」といったら
師は「たとえ冗談でもそういうことは言ってはいけない!」とたしなめられた。
代償の信仰。自分の持つ何かと交換する信仰。
これはダメです。
その第一の理由は本尊のお力をみくびることになる。
第二に自分は有限であるという認識になり、法界とリンクしていて無限なるものとつながっているという「空」の思想の否定になる。
そんな事しなくても整うものは整う。
同時にそんなことしても整わないものは整わない。
Aさんにした事が良い事でも、悪い事でもAさんから還ってくると限らない。
Bさんから来るか、Cさんから来るか、そこはわかりません。
だから人に善を施すなら法界に施したと思いなさいな。
本人から礼を言われなくても法界から還ってくる。
人に仇をするなら法界から還って来ると思いなさいな。
本人から仕返しされなくされなくてもどこかで法界の報復がある。
そういうものだ。
そういう法界の理解があって、そこに尊天のお働きがあり、無限供給がある。