金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

崇める教は祟る教

至高の存在をどこまでも外に置く。

私たちとは全く違う存在でいと小さく低き存在である我々は常に崇めひれ伏さねばいけないという考えは大きな毒を生む。

甚だしきは教祖をそのように思いなすよう強要する宗教だ。

教祖様は実は弥勒菩薩だとか、他天体から来た全く別次元の人。真の救世主だとか死なないのだとか。

大体そういうのは警戒すべきだ。

 

それはどこまでも差別相に住するから教えの設定だからだ。

私たちよりずっと優れた存在の教祖様を崇めなさい。

だが歴史上のどんな偉人もすぐれた人物も我々と同じ人間だったことをわすれてはならない。

 

仏教はそういう崇める教えではない。

法華経だろうが阿弥陀如来だろうが大日如来だろうがその本質は我々の内にこそあるのだと思う。

でなければ悟ることも往生することも不可能だ。

お釈迦様は宇他天体から来た宙人で我々とまったく違う存在などという宗教は外道でしかない。

仏教には尊ぶはあっても崇めるという考えはない。

私の管見の限りでは経典には一文字も「崇めよ」とは書いていない。

崇める宗教はやめることの許されない脅しの宗教だ。

「崇める」から「ワ」(和)の部分を抜いて教団から「出る」をのせたら「祟る」に変わる。