諸々の仏尊にはすべてその尊の「本誓」なるものがある。
本誓とはその仏が出現した意味であり、目的である。
ある天尊の御信者が繁盛を祈りたいと思っているが、何か、それは欲張ったいけないことのように思えて踏み切れないという話をうかがった。
まじめな人というより一知半解というべきだ。
それでは本誓の意味がない。
医者に行きたいけど、わたくしのことで医者の手を煩わしては申し訳ないからひたすら我慢しようというのと同じだ。
其れなら何の為に病院があり医者があるのか意味わからない。
増益、敬愛、息災、時には調伏ではないかと思うことさえも本誓にあることなら、そしてそれが本当に必要なら自ら迷わず手を合わせ頼んでみることだ。
調伏も本誓にあることだ。
時に降りかかる火の粉は避けねば身を焼く
ただ恨みゆえに行う呪詛や黒魔術の類ではない。
肝心なことは必要か否かだ。
もとより仏の考えは我々の及ばぬものだ。そこは素直でよい。
仏意に叶わない願い、道ならぬ願いなら叶わないのだから気にしないでいい。
だから逆にいかなる願いも見切りは必要だ。
叶わないのになおも手を変え品を変えてごり押しするのはダメだ。