ある門下の教会長さんの述懐。
この方は埼玉から修行時代は金翅鳥院に週四回は来ていた。
今は教会主管者でもうかなり長い人です。
でもご本人が思い還すと「そのころが一番、修行になった、勉強になった」といわれました。
普通の伝授だけで得られないもの、わからなかったものが沢山あった。
時にはここからは手伝いでなく今日は勉強にしましょうとも言ってくれたといわれました。
逆にそう言われると私もそういうことでまちがっていなかったな・・・と思う。
それはどういうことかというと・・・・、
うちの恒常的なお手伝いは実は先行き、独り立ちして宗教者としてやっていくための教育でもあるんです。
だから、一般信者さんや自行の方のお手伝いをいただくのはおまつりや人寄せの時、大掃除などの時だけお願いしています。
勿論そうしてお手伝い頂くのはこの上なくとってもとってもありがたいと思っています。
でもこちらから「手伝いに来い」と言えるのはそういう教育の用意があるからこそいえるのです。
何一つ相手に見返りなしでは呼ばない。
だから、ただただ手伝いだけで来る一般信者さんにはお供物のお下りとかをさしあげていますが・・・
ここ数年「末は職業行者になりたい」という方が2名いたけどどちらもハッキリお断りした。
その時点でも「それでも毎週お手伝いにきます」という大変にありがたいお言葉をいただいたのだけど「いや、内弟子もいてもう手は足りていますのでありがとうございます。」と言って恒常的なお手伝いはお断りしました。
ただの家事なら自分の家の家事をした方が良いだろう。
熱心に毎度くればそのうち認めてくれるだろうと思うとしたらそれは見当違いだ。
資質の問題で別に彼らを怠け者だからダメだと言っているわけではないからだ。
私は拝むこと言う以外、何も知らぬ一種のバカです。
別に聖人君子でもなければ、さりとて、ゴルフも野球も芸能ネタのような世間話も興味ないし、世間の人間としては凡そ面白みのない人間です。
だから祈願や仏教の話くらいしか日常でもしない。
ここに一日中いられても話はそんなものしかできない。
徹底した仏教者といいたいのではありません。全然そんなたいそれたもんではない。
知識やキャパシティの乏しい人間でしかないのだと思う。
たとえば阿闍梨は阿闍梨の十三徳と言って絵画や音楽などあらゆる諸芸にも通達していないといけない。そういう徳はないですね。
だから先を目指す必要がない人には来ていただいても寺院運営の話、祈願の話のほかは有益な話、面白い話はなにひとつない。
だから手伝いだけが必要ならアルバイト雇います。
ただ人を使おうと思ってはいません。こちらも気を使います。
ギブアンドテイクは何にでも必要ですから。
何も見返りもなしに人に負担をかけるのは本意ではないからです。
純粋に手伝いだけしたいという奇特な人は少ないだろう。
また、そういうご厚意に甘えた、頼るというのもいかがなものか。
今後は一般信徒さんからアルバイトさんをお願いするつもりだ。