金翅鳥院のブログ

天台寺門宗非法人の祈祷寺院です。

この世をば我が世と想う

「 この世をば我が世と想う

望月の欠けたることのなきと想わば 」

と詠い絶頂にあった平安時代の貴族、藤原道長はこの歌のあと、奈落に落ちるかのように子供も失い、権勢も陰り、自らも病を得てなくなって行ったという。

昔も今も世の中にもそんな感じの人はいるが先行き往々にして似たような末路となる。

具体的にはどうしてるそうなるかは知らないし、経緯はまちまちだが、ダメになっていく人は驕りがあることは同じです。

 

驕りがあれば必ずやなにか自然の本性に反することがそこには起きている。

自然はそこを本来に戻そうとする。

驕りは流れを止める。何かしら独占してよそに一切譲らない。

実はそれは豊かさでなく貧しさの恐怖が根底にある。

そしてそれはやがて貧しさや減少を具現する。

あれだけ栄えたものが全く滅ぶ。

古来、この働きの主を荒神と呼ぶ。

真の長者は決して止めない。むしろ豊かさの本元として周囲も豊かにしていくことながら忘れない。

宇賀神修儀にいわく

「荒神 他にあらず 自身 荒神なり」と

私たちのなかには本有のサッタラ神があるという。

すなわち仏性を人格化した金剛サッタがまします。

荒神はそとから来る悪魔ではない。荒神の障りはサッタラ神の怒りであり、私たちのなかにプログラミングされている。

幕末まで生き延びた加賀前田藩百万石には家訓がある。

「それは天下を支配することつまり天下人にならんと欲するな」ということだ。その支配は決して長く続かないからだ。足利将軍、信長、秀吉、家康、最高権力者の行く末を見てきたものの叡知だと思います。