在家で頑張ってご祈祷を習って祈祷所を持ちたいという人が門下にはそこそこいる。
でもお寺をやり教会をやるということはどういうことか?
それは本尊のお取次ぎ所ということだ。
自分がやりたい、やりたくない と言いう以前に本尊のためにその教えの場をもりたてていく、本尊の使いとして生きていくという気持ちがあるかないかだ。
極端に言えば聖徳太子の言うように三宝の奴(奴婢)になるという感じだ。
其れができるには自分の志の対応してそういう使命があるという自覚があるかないかだ。
使命を自覚しないなら無理だ。
あくまで主役は本尊だからだ。
自分じゃない。
そこを勘違いしてる人は外されるね。
はずされるのも慈悲だ。
そういう考えだと自分が業をかぶるから。
でもそういう人にはこの話をしたところでたぶんわからないだろうね。