色(しき)に住して心を生ずべからず、声香味触法に住して心を生ずべからず、応(まさ)に住するところなくして而もその心を生ずべし。
色に住して心を生ずるべからず 聲香味触法に住して心を生ずべからず
ものや五感に写るところのものに耽溺して心を留めてはならない
まさに住するところなくししてしかもその心を発すべし
そのようなものではなく、もっと本質的なところにアクセスしろというのです。
それでいて「何も思うな」というのではない。
無念無想がいいとかいうことでは全くない。
でもわたしたちの心は目うつり、音に聞き、言葉を交わすことの中にしかない。
それをやめたら何もない。普通はそうだ。
では何にもとずいて心を発するというのか?
諸心皆、非心たり、これを名づけて心と為す、所以は如何、須菩提、過去心も不可得、現在心も不可得、未来心も不可得なればなり。
諸々の心は皆、われらの外界の縁に触れて常に揺れ動くもの。
しかし、それでは「こころ」そのもの姿はわかりはしない。
だが心とはそれ以外に知りえないもの、とらえられぬものでもある。
スブーティーよ。
過去の心も、現在の心も、未来の心も実際にはとらえられはしない。
だがそういう言葉は存在する。過去も現在も未来も概念としてあるだけだ。
「今といういまなる時は無かりけり、マの時くればイの時ぞ去る」というようなものだ。
全ては言語化するための概念、概念は概念で事物そのものではないのだ。
そうした概念がすべてないなら心はあるのか?
あるのだ。
もし、仮にないというなら生まれてきた何も知らない赤ん坊は概念を憶えることはありえない。「父母未生前」の主とはその心を言う。
其の心とは概念を使う思考のことではない。
住すべき心とはそれだ。
高度な知的な心でもない。
哲学的に考えた果ての果てにいきつく心ではない。
むしろ真逆な心。
もっと原初的な心。赤子の心だ。
波がなければ水は鏡のようで水には見えない。
存在がわからない。
だが水に余計な動きがなければそれはそのようなものなのだ。
それは私たちが思う心の姿ではない。
こころとは何か?という問いは水に波を立てる試みでしかない。
波は水から起きてはいても水そのものではない。