羽田談
世の中には我こそが陰陽師であり、他所はすべてニセモノなどと豪語する人もあり互いにあいつはニセモノなどと争っているということをきいた。
だが実際そうなら歴史というものを知らないこと丸出しだ。
土御門家や加茂家などという宮廷陰陽師だけが陰陽師ではない。民間陰陽師や法師陰陽師という存在も研究者ならだれでも知っているはずだ。
ましてや宮廷陰陽師など今はいないのに○○家には由緒以外に特別な意味はない。
陰陽道自体の中身も時代の推移とともに変化している。
下記の図のように梵字や観音。文殊、不動などの仏尊の名前がみられるのは密教と習合した陰陽道であり初期のものではない。
ここでは密教由来の地水火風空を五行思想に当てはめており、平安時代、興教大師あたりからすでにそういう試みはみられる。
したがってザックリ言えば陰陽師は修験者というのと民俗学的には同じ扱いだ。
安倍晴明も消失した宝刀の復元から急激に評価が上がり、重く用いられたのは60過ぎてからだという。
安倍晴明はすごい!という話の多くははほぼ説話の世界のことだ。
所詮史実と説話は違うが宗教ではそのへんの区別はない。
修験道でいう役行者の話みたいなもので信仰という世界ではそれはそれでいいと思うが、あまり声高に「我こそは」と本気でいうとか、ましてや現代において職能的な意味から本気で陰陽道の宗家を争う姿勢は無意味だ。
江戸時代なかごろに陰陽寮の暦は不正確と指摘されて幕府天文方に敗れて以来、権威は失墜したという。
正統なる陰陽道の祭壇と称するものを拝見したことがあるが、一目で伝統的なものではないことがわかる。まあ、古くてもせいぜい江戸時代よりあとのものだろう。
今はそういうものも多いのだと思うが陰陽道には定まった聖典も教祖もない。
正統も本家も言ったもの勝ちのようだ。
だから個人的にそういう肩書には嘘でも本当でも興味はゼロだ。