慈の次は悲。
悲しみだ。
仏教では造化の神や創造主はたてない。
たてれば悲しむべきものも作られたことになる。
この世は悲しみや無慈悲であふれている。
そんな創造主っていないだろう。
西洋哲学はついに神を議論の場から引きずり下ろすに至る。
理詰めで言えばそうなるのは自明の理だ。
大事なことは悲しいことがあるとかないとかより、悲しむことができる私たちだ。
この悲しみの気持ちがないなら菩薩道は歩めない。
かぎりない同悲。
よく「同情なんかまっぴら!」という人がいるが、そういう人はわかっていない。
「同悲」つまり相手を思いやる以外に「悲のこころ」はどこにも存在しないのだ。
「願わくは一切の衆生に金剛蔵性あって虚空蔵菩薩とおなじくならしめん」
金剛不壊なるものを宿しながら悲しみの海に沈む衆生。
これもただ「可哀そう!」「哀れだ」というのは悲無量心ではないのだ。
そうではない。悲しまないでいい。
菩薩はただ世の中に悲しいこと、いたましきことがあるから悲しみ嘆くのではない。
菩薩の大悲とは大いなる金剛不壊の自性に気が付かぬことへの悲しみだ。
金剛不壊の故は虚空蔵菩薩の智惠・宇宙の自然智の宝庫だ。
自然本具の智惠は悲しむに対する答えを提供するだろう。
ただ悲しみを理解するには自己の内に悲しみがなくてはならぬ。
金剛蔵に気が付かぬ迷妄の悲しみ。
仏にもその煩悩がある。
あえて断たない煩悩。
故に大悲の存在なのだ。如来も悟りも冷たい理法ではない。