女性行者というのは難しい。
この間、大森先生とも話をしたが、いわゆる夫に愛され、子供をはぐくむという家庭的な幸せを享受する女性にはなかなか行者はなりえない。
そんなことは望まぬ!というならいいかもしれないが望まないから行者になれるのだというものではない。
抑々、昔の女性の行者さんの発端は人生上何らかの不幸や困難があって修行の道に入る方が多かった。
幸せで何不自由なく暮らしている人にはその動機がない。
そうでないなら、生まれつき超人的な霊能があってとか、よほどもの好きかだろう。
現代では趣味的に仏道に親しむ女性も多いし、スピ系の延長みたいな女性の修行者もいる。
そういう人は多いが・・・・でも、とても職業行者になるまでに至らない。
いたにしても占いプラス宗教ビジネスのリーダーみたいな人間が多い。
そう言うのは行者ではないと思う。
昔の女行者のような苦しみのバネもないし、鍛え方も鍛えられ方も違うからだ。
日常的な貧困、亭主の暴力 酒や浮気、ばくちなど あるい子供が重い障害を持っていたりは重病人を抱える家庭などで、そうした問題の中を死にもの狂いで逞しく生きてきたような人が多い。
そんななかで信仰だけが命綱だった女性たちだ。
だから迫力が違う!下手な男などおよばない。
私の知るそこそこの女性行者は皆そうであった。
おおかれすくなかれ、その時代の女性ならではの凄惨な人生を克服してきたからだ。
現代では女性観が大きく昔とは変わってきている。
給料も格差が是正され仕事も男性同様に何でもこなせる「女性の時代」だ。
けれど、それは扱いや権利の上でのこと。女性であること。男性であることは誰が差別してもしなくてもなにも変わらない。
そして世間の観念というものもそうそう変わらない。
例えば地方などでは行者でなくてもお葬式でも尼僧は敬遠されがちだそうだ。
日頃付き合いがあり信頼関係があれば勿論その限りではないだろうが。
何故、敬遠されるのわからない。私なら葬式の導師が尼僧でもなら一向に構わないが。
でも現実に地方などではそういうことも多いらしい。葬儀でお声がかからない。
まあ、昔から変わらない土地では「女だから」珍しいのだろう。
いまでもそこそこ大変だそうだ。
だから軽々に修行して行者になりたいなどと言う女性もみえるが、かなり熱心でも本当にやりたいなら得度して本山の講習や山修行に行ってみたらいいというにとどめている。
祈祷の秘術を教えるなどはよほどでなければしない。
まあ、それは男性も同じだが。
無論得度までに至るにも厳しい修行はある。
あえて勧めはしない。
なかなかこれは!という女性にはほとんど出合わない。でも、それはそれでいいことだと私は思う。
ごく一部の人以外は修行などに打ち込むより、職業があるにせよ、家に帰れば幸せな家庭人でいて欲しいと願うからだ。