別に自分の宗派を自慢するつもりはさらさらないのですが。三井寺には「準教師」という存在がある。
これは正確に言えばお坊さんというわけではない。
お坊さんは円の十善戒の受戒を受けた「権律師」からです。
修験の階位は一僧祇という位置に当たる。
まあ。在家の仏弟子ですね。
本来は「お坊さん見習い」みたいなもんですが、お坊さんにまでならなくていい人はこのスタイルで修行していけばいい。一生でも。
私はそう思っているし、拙寺はその方針。
実は弟子が多いと言えほとんどはこの準教師です。そこから上げるつもりはない。
本人のめざすところが変わらなければね。
今日もそういう方が見えた。
自分がもっと深く仏教に親しみたい。ゆえに得度したい。
それだけならたとえ得度したとしても準教師どまりで十分ですよといっておいた。
得度した以上、参拝はもとより講習会や葛城山あたりは行ってもらいたいが、目的は飽くまで自分の修行。
教化活動はしないなら僧階はまったくいらないというのわたしの信条。
「下化衆生」が目的がないものは大乗仏教では僧になる必要はないと思っていますので。
僧侶の粗製乱造は意味ない。
そんなのは仏教の値打ちが下がるだけだ。
火の出るような凄い修行をしても「下化衆生」がないならそれは行者であって僧ではないと思う。
誤解してもらっては困るが別に「下化衆生」がなくて修行に価値がないとか、どんなに修行してもダメとかいいたいのじゃないですよ。
それは「上求菩提」としては立派でしょう。自分の修行だけならそれでいい。
そのまままでいいいんです。
「衆生救済」という言葉がある。
大乗仏教なら信徒レベルでも衆生を益するというのは当たり前。
でもそれと「下化衆生」は少し違う概念。
人のためになる行為、助ける行為はなんであれ「衆生救済」と言えなくはない。
障害者。老人、病人の手助け。災害の寄付、ボランティアなどなどの善事。
溝に落ちた犬を助ける。これも皆衆生のためになる。
でもそれはいずれも「下化衆生」ではない
そこに「仏教の教化活動」がないと「下化衆生」とはいわない。
坊さんのお仕事はこれ。布教。仏法を施すこと。
葬儀・祈祷も法事もその一助でしかない。
その辺をしないなら準教師でいいんです。(ちなみに準教師は祈願法事などでお布施を受け取れません)
言い方変えれば居士仏教。
これからは死んで初めて仏教に出会うのでなく、生きてうるちに仏教に親しむ。
死んでから仏教徒になって何するんです?
だから、たとえば葬式も自分自身が信じてる寺に予約する。
いつまでも徳川家の決めてくれた宗派に属する意味はない。
故人も施主もだあれも信じてもいない宗教で葬式する意味もない。
いずれはそういう時代になると思います。
だから準教師は未来の仏教の在り方の一つとしてわたしは大切に考えています。