金剛経に言う「無我相」とはどういうことか。
簡単に言えば「私に決まった私はない」ということ。
決まった私がないのであれば、例えば間違っている私と今それを改めた私があればそれはもうそれは同じ私ではない。
だから間違っていると指摘されても必要以上に傷つくことはない。
改めればいいわけだ。
それは褒められても同じこと。
いつまでも名誉などにしがみついていては埒は開かない。
じゃあ何を持って「私」というのか?
本当の私は常住の真如と同じもの。
そのほかの私はすべて装飾品であり、飾りだ。
その飾りを「我執」という。
その飾りを取っていくことが真如への道、仏道修行だ。
智慧を秘めながら野の花や虫のように無私になることかなと思う。
それが一番楽だもの。ただ、生きるために生きる。
故にそんな「無我相」がわかったって世の中のエラモノなんかにはなれない。
わかってもわからなくてもなにひとつ外面が変化するわけじゃない。
「わたくし」あって「わたくし」なし。これを無我相という。
私はそういう程度の理解です。