無我相ということを言うなら「祈祷は何のためにあるのか?」という質問。
まあ、そういうのも一応もっともとも思う。
なぜなら「一切有為の法は露の如く、電のごとし」というのだ。
ハッキリ言えば泡沫のごとき現世を面白おかしく生きるために人はなにごとかを祈り、人はなにかしらを望んでいるのだと思っていい。
ゆえに達観すれば意味がないとか愚かしいとさえも言うだろう。
だがそういうニヒリズムは仏教を理解していないもののいいぐさだ。
祈祷の大事なところはその泡沫のごとき中にも無上の価値を見出すところだ。
露の如く、電のごとしとい法界の万象こそ無上の価値。他に価値のあるものなどない。
裏を返せば「諸法実相」ということとひとつだ。
そしてそれでこそ真の「無我相」なのだ。
無我相はどこに逃げず、何を退けずとも無我相だ。
あえて無我相になる必要もないし、無我相の外に出ることも叶わない。
如とひとつだ。