仏教では一切皆空を説き、執着を離れるのが本義なのに祈祷するのは何故?という質問。
荒神祭文に「仏にあらざればみな望みあり、恨みあり」という。
これは人の真実だと思う、
そうやって多くの人は浮世を生きていく。
仏道の人も一切皆空と知っても、なお人としての望みや悩みがないわけではない。
そこをバッサリやれれば、その方は阿羅漢だろう。
だが、大乗では阿羅漢道を勧めない。誰でも歩める道じゃない。
煩悩具足の凡人でありながら仏道を歩む。
無理なく仏道を学ぶ。
頼むところの神仏は時に険しく、厳しく、泣き笑いの人生を生きる旅の友。善友だ。
おりにふれ、そうした友に助けられながら少しづつ仏道を理解できるのもその方々のおかげだ。
あなたが途方に暮れる悩みのうちにあったからと言ってあなたを神仏が護念していないわけではない。
それを信じる人には次のステップが見えてくるはずだ。
諸行無常
諸法無我
一切皆苦を下敷きに生きていくこと。
金剛経で言うなら「無我相」の三字に要約できる。
長く信仰していれば助けられながらもそうなのだと思うことはあるはずだ。