古仏を求めるほうが多いのはひとことで言うと今のものには「ありがたみ」がないものが多いからだ。技術的にもはるかに劣る。
明王と言えばただ怒りの表現ばかりでおわり
はたまた天女であれば妖艶であればいい。風俗嬢かと思うようなものもある。
このごろはそんな風潮だ。
心から手が合わせられるようなものすくない。
仏像は作りが稚拙でもそこに有難いと思える何かがないといけないと思う。
精密な作りでもないものはない。うまい下手ではない。
最近の中国のレーザー彫など実に精緻だ。だが好まない。
ただの量産品でしかないからだ。
かなり以前にも、紹介でスバラシイ大きいお不動様を勧請したので是非魂入れて欲しいといわれたが写真を見て即座に断った。
ただ怒りの表情にペンキを塗ったくったような色合いの外国製仏像。
こんなものに仏の魂を迎えるのは冒涜といってもよい。
私の師匠も仏像は選んで開眼した。
「これは無理」と言って断ったものも多々ある。
まず勝手に相談もなくほとけを求めてきて魂入れろというのはダメ。
祀ってよいものとそうでないものもある。
たとえば個人の家で鎮護国家のために祈るからと大元帥明王など持ってこられて開眼を頼まれてもそれは無理だ。
面白いのは宗派がまるきり違う本尊の魂入れとかだ。
そこは菩提寺にたのむべきことだ。
筋が違う。