墓参にいって思う。
そのうち日本人の墓参風景もなくなるだろう。
既に彼岸だというのにお花があがっているお墓は数えるほどだ。
選択的夫婦別姓は必ずなるだろう。是非なくそうなる。
だけど、そうしたらこれは自分のうちのお墓じゃないと言い出す遺族も出てくる。
その時に日本の霊的文化が根こそぎ壊れる。
かろうじて残っている壇家制度もなくなっていく。
信教の自由が保障されているのに伝来の宗派の法要を営むのは何故か。
それは日本人の先祖に対する思いからだと思う。
先祖も糞もなくなればそれもなくなる。
ドンドン物質偏重で海外の観念を重く用いて移民大国を目指す日本。
誰も本当に日本を守る人はいないようにすら私は思う。
いるように見えて只、既得権益を守りたいだけか、変化を恐れ理由もなく古いものに固執するかだ。
説得力はない。それらはただ共感によってのみ成り立つものだったから。
だがその共感を養えなければ日本から霊的ベースがなくなる。
家康公はよく檀家制度を考えたと思う。神君というに値する。
単に戸籍替わりではなく、皆が未来に向けて供養していける世の中を作りたかったのだと思う。彼は霊的な基盤を作った。はじめて真に日本という国ができた。
それでこそ日本という国の霊的なベースができるのだ。
それを壊したのは時代というよりただの儀式屋に堕してしまった僧侶の怠慢だろう。
終わりのないものはない。だが日本人の子孫たちはあらたなる霊的ベースを見出し作って行けるだろうか。
日本とは何かと問われるならば私はそれこそが日本なのだと思う。