大河ドラマに出てくる藤原道長の甥で摂政藤原道隆の子、藤原伊周、そこそこ切れ者で容姿端麗な人だったらしいが、それで父譲りにどうしても権力への執着から離れられずに親の七光りを失った後も、実弟と藤原道長の暗殺を企てたり、私的には修してはならぬ大元帥法を修せしめたり、花山院法皇に向かって矢を放ったりといろいろな不祥事があって地方へ飛ばされたり、また都に戻ったりしながらを繰り返し、30代で亡くなる。
当時は意外と寛容で後の武家政治の時代なら即座に死罪になるようなことを度々していても彼は復権していたりする。
それはおそらく平安中期からの大和魂の考え方に多分によるのだろう。
大和魂とはWikipediaによると
「世事に対応し、社会のなかでものごとを円滑に進めてゆくための常識や世間的な能力。
特に各種の専門的な学問・教養・技術などを社会のなかで実際に役立ててゆくための才能や手腕。
中国などの外国文化や文明を享受するうえで、それと対になるべき(日本人の)常識的・日本的な対応能力。やまとごころ。
知的な論理や倫理ではなく、感情的な情緒や人情によってものごとを把握し、共感する能力・感受性。もののあはれ。
以上の根底となるべき、優れた人物のそなえる霊的能力。
日本民族固有の勇敢で、潔く、特に主君・天皇に対して忠義な気性・精神性・心ばえ」
ということで、戦時中いわれたような荒々しい徹底抗戦の心ばかりをいうものではない。
そこには寛容や調和、慈しみや同悲の心、求道の心もあってこそはじめて大和魂である。
藤原伊周もこの心のもとに処断されたものと思う。
とりわけ大元帥明王に祈る大元帥法は当時は鎮護国家の最大の秘儀、いわば国防のための核兵器のようなもので勅諚あってはじめて修するものだった。
霊仙は最澄、空海とともに入唐した興福寺の僧侶。
長く唐にいたが、仏教に信仰深い憲宗帝の暗殺に伴い毒殺された。
だが一説には霊仙は大元帥法を知ったために殺されたもという。
大変な学識で三蔵法師とよばれた人だけに惜しい話だ。
帰朝していれば名僧として歴史に名が残っただろう。