難しいことばかり言っていても大体信仰の入口は悩みごとか願いごとだ。
それは否定できない。
よくわからない人でうちに来て「現世利益はダメでしょう?」とか言うが、何をか言わん。
ダメなら祈願などなりたたない。
うちは現世利益の道場である。
どんな祈願であれ、それ自体は構わないと思う。
だが、その祈願を通じて自分を高めていく道がここにある。
祈願を捨てる必要などないのだ。
祈願を捨てろというのは「望みを捨てろ」というのに変わらない。
人は生きていれば皆望みもあれば悩みもある。
叶わないなら何ゆえかを常に心の仏に問い、神仏に叶えてもらうべき祈願の質もまた問われてくる。
そこに祈願を通じて自己を高める道がある。
書を以て自己を極める
絵画を以て自己を極める
武術を持って自己を極める
楽器を持って自己を極める
同じだ。
いい加減な芸事は自己を極めない。
同じようにいい加減な祈願は自己を極めない。
底が抜けるまで祈願してみたらいい。
一回筆を持つだけでは書はうまくならない。同じだ。
祈願の行く末を以て神仏の心を知る。
そこから本当の信仰も磨けてくる。
祈らずして神仏を語ることはできない。
そんなのは丁度料理のカタログで料理を評価するようなものだ。意味ない。