「人の一生は重き荷をおうて遠き道を行くがごとし、不自由を常と思えば不足なし。」という家康公の遺訓は痛く私には心に響く。
天下人が不自由を常と思えば・・・といっているのだ。
信仰の道も同じ。
人はなにかしらの重い荷物を負うものだ。
いくら拝もうが行をしようがどうにもならない事はあるものだ。
しかもそれは多かれ少なかれだれにでもあるのだと思う。
だから「こんなに信仰しているのにうまくいかない!願いが叶わない‼」と腹立ちまぎれに苦情を言ってくる人には「ああ、そう、じゃあもうやめたらどうです?」としか言わない。
遠慮なくやめて他所に行って頂いたら良いと思う。他に言うべきことはない。
止めもしない。
そう言うのは私は祈願をいい加減にはしているつもりはないからだ。
「一生懸命お祈りしていたのに残念」とは思っても、申し訳ないなどとは正直思わない。本当にもうし訳ないならもうし訳あるようにするだけだろう。
「お前が力がないからだ」と言われればあえてそこは否定もしない。
元より私は伝える役目で奇跡の人ではない。マジカルな力などないただの人間だ。
私に言わせればそれを以て神仏を恨み、果ては神仏、そのようなものは存在しないなどと言うのは、もともとその人間がきわめて浅薄で幼稚な信仰しかもっていなかった証拠だ。
祈願というとおいしい御利益ばかりを歌いがちだがそれは違うと思う。
どんなに御加護があっても、いかなる奇跡に恵まれても、基本はこの世は生きづらい。けわしい処なのだ。一難去ってまた一難、
最後の最後までそれだ。それが人生だ。誰もそう変わらない。
神仏の加護があればこそまだ少しは楽だが。
だから重き荷を追うてかたじけない神仏の助けをばこころのよすがに生きる。
それが本当であり、他に信仰の道などない。と思うが。