いじめの原因にはっきりとした心当たりはない。17年秋ごろ、クラスメートから、「トイレ菌」とあだ名で呼ばれるようになった。言い返したが効果は無く、中傷はクラス全体に広がっていった。男子生徒の机や所持品をクラスメートが触り、その手で別の児童を触ることを「菌まわし」と呼び、下校するまでからかわれたと振り返る。担任も見て見ぬふりをして、「誰も助けてくれなかった」。 その後も、いじめはエスカレートした。一部の児童から「近づいたらぶっ飛ばす」「どっか行け」などと日常的に言われ、腹を殴られた。無理やりズボンを下ろし、裸にされたときは、「悔しさと恥ずかしさで涙がとまらなかった」という。恐怖で学校に通えなくなり、18年1月には適応障害と診断された。春に別の小学校へ転校したが、そこでもうわさが広まり、体調を崩した。体調面などから卒業式は、1人だけ別で行わざるを得なかった。 一連の問題を受けて、市が同年に設置した第三者機関は、一部のいじめを認定した。だが、男子生徒の訴えの多くが認められず、「市の調査は不十分だった。もう司法の場で争うしかない」と提訴を決めた。「加害児童は転校せずに、第三者委員会の調査でも守られた。まるで『泣き寝入りしろ』と言われているように感じた」という。
行政、個人。学校に対しともに厳しい判決を望む!
「絶対許せない!」そうだが許す必要などない。
判決がのぞむような形になってこそ初めて忘れたらいい。
そうでないとこの人は明日に向かって生きられまい。
人にはそういうことがある。
こういうと仏教者でありながら人を許すことを勧めるべきだろうにおかしい!という人がいるが、人を憎むなというのは理不尽を憎む必要がなくなってから考えたらいいことだ。
そういう考えは泣き寝入りの勧めと変わらない。それでは世の中よくならない。
大乗の教えである以上、「個人が泣き寝入りする」とか、「仕方ない事と納得すればいいだろう。争わないでそうすべき」という考えは私には存在しない。
ましてや右の頬をぶたれたら左も出せとこの少年に言えるか?
それでは明王がいる意味がない。
今はいくさの最中だ。少年よ戦え!
ただ、敵を倒すことのみ考えろ。