「寺でしゃべったことは全て尊天が聞ている」とよく師匠は言った。
ある信者さんが「わたしは目が悪くなってきて、手や足の一本位なくなってもいいから。目を治してほしいんです。」というと
「聖天様の前でそんなことは言って絶対ダメだよ!」と真顔で怒った。
それはそうだと思う。
実感をもってそう言える。だから尊天は怖い!というが、怖いというより接し方があるのだ。
尊天は「お前はこういったよね?」と言ってくる。
いやしくも祈願寺の住職というのは本尊の受付窓口でもあるのだ。
拙寺でも私に向かってなにごとかを決然と言えば、それは尊天に聞こえる。
私自身は皆さんと変わらないでもそこは受話器なのだ。
別にエライ訳でも何でもない。そういう役どころなんだと思う。
一種の辻占のようなものだ。
だいぶ以前だが難儀に直面した行者のことで「密教なんかやるからそういうことになるんだ」と言った人がいた。
それは本人がそう思うのではなく霊的な声でそう聞こえたということだったそうだが、その時、「ああ、この人はそんなこといってしまったか・・・・」と思った。
別に罰はなくても尊天は憶えている。
後にこの方からじぶんも「密教をやりたい」といわれたが、これももう言ってしまったことはどうにもならない。
即座に尊天から「NО」が来た。「人のことを言うならお前もするな」
尊天がダメだということをオーケーはない。
「○○はしない」と言えばこれも同じ。
よく聖天に断ちもののようなことを安易にたててはいけないというのはそういうことだ。
例えば酒をのまないといえばもう飲めない。なにがあっても!
そこに酒を飲む量も善悪も関係ない。
上書きもできない。
昔からの聖天様のお寺の和尚さんは必ず「何とか断ちもの撤回したい」という話は聞いているはずだ。
でも無理なのだ。なんとかしてあげたくともできない。
私自身もそうは言っても、あれから大部たつからいいかな?と思いきや、尊天のお考えはなんにも変わらないと感じることがほとんどだ。
したがって「私は一度こう言ったらもう妥協はないよ」と念を押す場合は実は「私が」ではないのだね。
天尊の前でハッキリ言ったことは取りけせないのだ。
仏教には「瞋恚不受懺戒」があるので謝っているのに怒って許さないは基本ない。
ただその許しは怒りを解くだけのことで、必ずしも許可して何かをオーケーしたり施せるわけではない。
言ったこと行ったことの責任は残る。
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