こういう質問ままある。
そう言う気持ちもわからなくもない。
かくいう私もそういうことを気にしていた在家のころの思いもあります。
余計な耳学問が増えるとそうなる。
でも結論から言えば准胝院の言うとおりです。
この人は私の門下ですが案外きついことハッキリというのね。
似てきたんかな。私に。(笑)
訳をおはなししましょう。
たとえば聖天様はとてもご利益がある。しかもそれには浴油がいいのだと聞けば、聖天尊奉安の道場をさがる。それでかつ浴油しているとこだけを探す。
もう頭のなかは浴油をしているところはどこ?という一辺倒になる。
それも今度は別情報で金天がいいと言えば金天で探し、木天がいいといえば木天で探しまくる。
だから唐突に寺に電話して「おたくの聖天像の材質って何でできているんですか?」なんてことまで聞く奴も出てくる。
そういう人は自分の名前もなにも言わずに聞くケースが多い。
なぜならほかのことノウミソから消えているんだね。常識もなにもかも。
当然、何故それを尋ねたいかも全部省略で話すから理解なんかされない。
「変な奴!?」とおもわれるだけ。
それでもかなわないと性懲りもなく今度は別の条件で探す。
これは霊感商法の問題にも言える。
病気は先祖の不成仏のあらわれだといえばもう「そうなんだ!そうだったんだ!」とばかり思って、他のことは考えない。
治らない理由はそれだと断定する。
そこにもってきて壺だの多宝塔だのの呪物を提示されたら、もうそれを買うことしか考えられない。
もう頭の中は「買いさえすれば助かるのだ!買わないとダメだ‼」としか思わなくなる。
釣り針呑み込む魚の脳みそになる。
目のまえにいる餌しか見えない。
でもそういう風にしても心願なんか叶いませんよ。
だってそこに信頼も信仰もない。
アンタ、方法論に期待してるだけでしょ。
肝心の神仏は二の次、三の次じゃないか。
しかもそれは祈祷者のする方法論ですね。
一般のお方には関係ない。そこにやたらこだわる。
それ、信仰じゃないですよ。