「大宝積経」の中にこんな話があるという。
マハ―カルナ【大悲】という商人の頭領がいた。
500人の商人たちと船に乗ったが、そのなかの一人に極悪人の男がいて皆殺しを企てすべての財宝を奪おうとしているものがあることを知る。
マハ―カルナは仏教徒で釈尊の俗弟子だったので、これを止める方法を考えて船の中で七日間悩む。
このことを皆に打ち明ければ、怒った人々によって男は殺されるが、その善き人たちは皆一応に殺生の罪を負うことになろう。
さりとて知らなかったことにして無視すれば、やがてこの男は500人もの人を殺し大いなる悪業を積んで無間地獄に行くだろう。
七日間悩んだ挙句、彼は男を殺し、自分が悪業を積むことを選んだ。
男を殺したマハ―カルナは釈尊のみもとに行き、した行為を隠すことなく述べ、深く懺悔した。
これを聞いた釈尊は「貴方がしたことは多くの人を救ったのだ。善い行いをしたと思いなさい。あなたは死後は輪廻を超える良き果報に恵まれるだろう。」と言われたという。
無論、大乗経典の話だから史実ではないだろうが、大乗の考えの一端はのぞけると思う。
大乗仏教とは社会を前提としている仏教だ。上座部のようにあらゆるカルマから逃れて解脱する道とは違う。
上座部なら「たとえ自分は殺されても相手は殺すな」だろう。
解脱こそが目的で人はどうあれ関係ないのだ。
これに対して大乗仏典がこうした社会にありがちな問題もコメントせざるを得ないのはもっともなことだろう。
「あなたは不殺生戒を第一とする仏教徒であるのに死刑を肯定するのはどうしてか」と聞かれたことがある。
「悪人はまだしも死刑執行する人のカルマはどうなるのか?」という意見もある。
実際、私は死刑よりも終身刑があればそれでいいと思う。
終生牢獄でいることは犯人に大きな反省の機会を与えるだろう。
ただそれがない現状では社会のためには極悪人の有期刑よりもあえて死刑を選ぶ。
ここで必ずしも終身刑が死刑より軽いとは言えない。
実際イギリスでは生ある限り拘束されるだけの終身刑は極めて残酷な刑で死刑の方がマシではという議論もある。
私も死ねばそれで終わりだろうが、そうした命ある限り拘束されるという過酷極まることになったのは何故かを考える機会にはなる。死んではそれはないだろう。
ならばこそ終身刑の成立を望む。そこに死刑は可哀そうだからという気持ちはない。
この経の説によるなら死刑執行官の公務もいわゆる殺人ではないのは明白だ。
重く苦しい役目だが、それだけに私は大きく善きカルマを積むものと肯定している。
実際は誰が絞首刑のボタンを押したかわからぬようダミーのボタンも複数あり、それを執行官が数人で押すそうだ。それだけのことなのだろう。
だが私はその方々のカルマはこの商主と同じだと思っている。
死刑判決を出す裁判官にも同じことがいえる。
そう言う判事を人命軽視の悪魔のように言うのは間違いだ。
慈悲の心も持ちながらも、自信と誇りを以て公務に励んでいただきたく思う。