仏道修行というと霊山に上り、経を読み、あるいは密教の行法をするというイメージが一般的ですが、心の修養はそういう行に打ち込まなくてもできます。
逆に厳しい行に明け暮れてもこころの修養が無ければ意味は薄い。
行というと踏ん張ることばかりですから、我慢つよくはなりますね。
へたれではできない。
でも性格がよくなるとは限らない。
むしろゆとりのない修行をするとかッと怒りやすくなる。
それでは修行かもしれないが修養ではない。
人にとって必ず必要なのは修養です。仏道とは基本的に修養です。
修養ができれば人としては十分です。
修養は人と人の間にこそ光ってきます。独りで山奥で終生、瞑想に没頭するとかいうならいらないかもしれませんが、
山に行く、堂に籠り護摩を焚くなどというのはその修養の上にあってこその修行です。
ひたすら山に行ったり護摩焚いたりしていれば立派な修養ができるとは限りません。
そう言う行に依存しても人格はできません。
狡い人は上手に怠けることを模索してずるい行をします。
欲張りな人はあれもこれもと焦って欲張りな行をします。
怒りを秘めた人はますます怒りにかられ鬼の形相になるような行をします。
慢心の人は行や同行や指導者さえを舐めてかかり大きな障礙を受けます。
一応の行が終わって人の祈願をする行者になればそれがそのままの行者さんの性格になる。
こういうタイプの人はいずれも肝心なものは作れず終いです。悪くすると魔行になる。
だから、どんなに優秀でも三毒熾盛の人ではしないほうがいいと思います。
たとえば三毒のうちの瞋恚。怒らないという一事だけを完全に近く守れれば、どんな難行苦行の修行にも勝ります。