私は毎朝、5分かそこら布団の上で無我相禅をします。
衣帯を調えて本堂でなどは講習でもしない限りほとんどしない。
よく何時間座りましたとか、線香一本お間とか、毎日二時間座っていますとか聞くが・・・・、
「私自身に限っては」の話だがあまり時間の長短に意味は感じない。
大事なものくるときは一瞬のうちにくる。
このブログもキモの部分はみなそうして得たものだ。
いずれも10分とは座らない。
人様はどうだか知らないから時間の長短をどうこうとはいわないが、わたしのようなグウタラは2時間も座ればただただ雑念妄想の海に浸るだけでまったくの時間の無駄だ。(笑)
私は精神的に非常にきつかったときこれで乗り切った。
なので五分でいいからしてみたらいかが?とは申し上げている。
はじめから毎日一時間しなきゃみたいに気負って、数日で挫折するよりよいのではないか。
どうも日本人は気負って「頑張ってやる」「耐え忍ぶ」のが修行だとしか思わないようだ。
苦行即修行だ。
寒中にずっと滝に打たれて・・・とか、断食して山にこもるというのが大好きだよね。
要するに普通人には及ばぬことをするのが修行と思っている。
そうして結果ギリギリを超えて死ぬ人もいる、何人か知っている。
私がまだ若い頃の事、山に籠って100日断食して亡くなられた行者さん。
みな残念だが「すごい行だ!」と讃えた。私もそう思った。
だが、彼のもっと親しかったた友人は「バカだとしか思わない。残った家族はどうなる?」と言っていた。
本当は無茶をすることが修行ではなくそこには古来からのシステムがある。
なんのため?普通の人でも少し頑張ればできるようにだ。
そうでないなら大乗じゃないでしょう?
いいかえれば「前人未到の行」をするなどは不次第の行いだ。
修行自体よりか頑張ることに重点を置くのは違うと思う。頑張るのは無論「精進」耐えることは「忍辱」と言って六波羅蜜に数え、大変大事だがそれが目的じゃないでしょう。波羅蜜とは到るための手段という意味だ。
飯を食い、顔を洗う。風呂に入ると同じで座禅も勤行も私は時間とかは決めていない。
行者は気負わなくても日常の中で自然と行できるのが本来だと思う。