天台大師の事績で妖怪の出るという魔所で一夜、大師が座禅を組んだ。
それで、妖怪はそれきりもうでなくなった。
空間が変わった。
大師の認識が魔のひそむ空間の歪みをただしたのだろう。
こういうのは「定力」というべきである。
「加持力」とは少し違う。
加持力は仏力をもたらす対象と、仏力の根源たる本尊をつなぐわけだ。
定力はそういうピンポイントはないが全体が是正される。
顕教の大徳のもたらす奇瑞はそうしたものだと思う。
日本でも古来、優れた禅僧が一晩座禅したら怪異がやんだという話は聞く。
ただしそのようになるには相当の悟りの境涯が必要だ。
常人の禅僧ではなかなかだ。釈尊の奇瑞もそうしたものと思う。
むかし、東京で金剛経の道場に通う林天朗師がなにか霊感のようなものが生じてものを言いだしたら、師の濱地天松居士は、直ちにそれを看破して一喝した。
それで林氏の熱に浮かされた霊感みたいなものはそれきり吹っ飛んでしまった。
「魔境にかかるところだった」と言われたという。
そういうものだろう。
一方で密教はいまだ悟らざるうちに験をもたらす点では優れている。
従来、「遮那業」という密教と「止観業」という顕教を併習する方向を作ったのは智証大師であるという。
その点は天台籍にある人は幸せだと思っている。両方修行できる。