まあ。私は理趣分読みますが…法華経においてはどうでしょうか?という質問です。
「観普賢菩薩行法経」に基づく止観を含む「法華三昧」を正行とするなら、すなわち読経をその略行とすべきです。
「法華懺法」の読誦も法華三昧と読経の中間にありますから当然祈願になりえます。
すなわち顕教においては六根の罪障を滅ぼす滅罪即利生の心を表にします。
祈願の側面から言うなら密教の息災・増益・敬愛・降伏の四修法のようにターゲット的なものではないですが、全体に短を補い長を増すバランス的な祈願になります。だから商売繁盛や恋愛成就のような個別祈願で法華懺法読むのは感覚的にちょっとそぐわないね。
厄除けや病気平癒ならまだしも。
普通の祈願なら普門品や神力品などの方がいいように思います。
誤解するといけないので一言します。
別にそれが悪いということで言っているのではない。
むしろとても興味深いと思う。密教と同じくターゲット的に四修法に似た祈願ができます。
効験も鋭い。
法華懺法のように滅罪的な匂いはあまりしない。
法華の髭曼荼羅も護符も木剣加持も少なくとも法華の経文にはないことですけどそこは私的には全然こだわりは感じない。
しかしながら、天台大師は法華経だけですよね。
むしろ天台法華の祈願は天台大師を手本にした方が本義ではないかと思う。
天台大師はターゲット絞った祈願という感じではないけど、その徳に感応して不思議が起きる。
そういうものですね。天台止観の六即にいう「六根相似」は密教の「即身成仏」と同じレヴェルだと思う。
方法論としては全く違いますが、境涯はほぼ同じなのではないかな。
そうでないなら顕密一致という前提が成り立たない。
だから伝教様は密教を求めたのだと思います。
天台における法華の最秘要は大乗圓戒です。
受戒こそが天台法華の秘儀といってもいい。
陳の永陽王や隋の煬帝も天台大師から受戒を受けられ霊験を得られました。
また、大師は入滅に際し、戒こそをわが亡き後の師とするようにと遺言されています。
まことにこと天台においては圓の十善戒こそが最も有難いものと思います。
だから私も第一に大乗戒の受戒を大事にしています。
在家の五戒は形の上には蔵・通・別・円の四教の隔てはないと思いますが、その心は大乗です。
日ごろ雑談みたいなことしか口にしないので少しは天台僧らしいこと言ってみました(笑)