行者も人間だから腹の立つことはある。
私の師匠は「腹を立てないことが大事だ。行者が腹を立てないなら本尊が何とかしてくれるものだ」と常々、言われてかなりひどい妨害も受けたが自分も決して怒りを表面化しなかった。
内心は当然人間だからそれは面白くははないだろう。
そう言う人だったが、あまりのことに「先生、これは酷いですね。なんとかすべきでは?」と私が怒っても「放っておけば、いいのだ」という感じだった。
同時にそういう妨害者が不思議に急死しても淡々としていた。
暴言はいて怒鳴ってその晩には帰らぬ人となった例もあるが・・・
「ああ、そう」という感じ。
そもそも人間、嫌なことも目をそらさなければだんだん強くなるものだ。
嫌なことがあるたび、心を強くするトレーニングだと思えばいい。
空手を思えばいい。拳だって巻き藁ついて鍛えるだろう。突き始めは痛いし、血も出るがそのうち、瓦も割れるようになる。
行者は本尊の怒りを知るべきなのだろう。
いくら腹が立つと言っても本尊が怒らないものを自分が怒ってみてもどうもならない。
本尊が怒らねば調伏などしても効くものではない。
逆にああ、これは怒らせたんだ!と思うと何もしなくてもそういう結果を見る。
自分のことでなくても、「ああ、これは本尊を怒らせたな」ということはある。
そういう時は私が止めることは勿論できない。
まあ、まずそんなことしようとも全く思わないが。
大峰山の修行に行っても何気ない一言でも「あ、この人、これは言ってはいけないことを言てしまったわ、たぶん権現さん怒るわ!」と思ったとたん同行が足を木の根に突っ込んで大きくくじいてしまったこともある。
そんなものだ。
だから酷いと思うことなら本尊に報告すればいい。勿論、どうなるかはわからない。
貴方が悪くなくてもすぐに勧善懲悪がなるほど世の中そう単純ではない。
行者は本尊に怒りを預けて生きないといけないのだと思う。
とりわけ諸天尊の行者には必要な心得と思う。
若し腹が立ったら「この怒りは本尊にお預けします」といったらいい。
ジャッジは本尊がするだろうから。